Written by Nisi-p(PART2STYLE)
どうも、PART2STYLEのNisi-pです。
皆さんお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか?
Nisi-pはというと、たまには音楽から離れゆっくりしようと、Netflixを開いた所『Hip-Hop Evolution』という番組に出会い、色々と思う所もあったので、今回は ”90年代Hip-Hopシーンにおける東西抗争” について触れてみたいと思います。
では!!
80年代中頃の西海岸(ウエストコースト)では、ストリクトリーなHip-Hopはまだ届いていない中、Dr.Dreが在籍していたWorld Class Wreckin' Cruや、Ice-TがいたUncle Jamm’s Army & The Egyptian Loverなどいくつかのクルーがパーティーを開き、マイアミやサウス同様に流行していたエレクトロファンクを演奏し人気を集めます。このエレクトロファンクはオールドスクール・ヒップホップと解釈される事が多いですが、当時のL.A.ではテクノという印象だった様です。
そんな中、Ice-Tが映画『ブレイクダンス』に出演。その後87年にメジャーデビューを果たし、フィラデルフィアのラッパーSchoolly Dの影響を受けたハードコアなテイストで、自らギャングチーム”クリップス”のメンバーだった経験も生かし、より実生活に近いリリックをラップ。ここL.A.初のギャングスタラップが誕生。
続いて86年コンプトンのドラッグディーラーだったEazy-Eを中心としたHip-HopグループN.W.A(Niggaz Wit Attitudes)が結成。
88年にはIce-Tが、映画『カラーズ 天使の消えた街』の主題歌を任される事に。
同年N.W.Aは1stアルバム 『Straight Outta Compton』をリリースするやいなや、その過激な歌詞の内容と若者への影響から社会問題にまでなり、代表曲の『Fuck the police』はFBIから演奏を自粛するようにと警告文が送られるほどとなり、エレクトロファンクは下火に。ローラースケートにハイソックス、ランニングパンツやフィラのジャージの時代は終わり、アフリカ系の若者達の関心はギャングスタカルチャーへ。
因みに、この頃ペアレンタル・アドバイザリーが産まれるのですが、より一層若者達は熱狂する結果に。
時同じくして、東海岸(イーストコースト)では87年よりEric B. & Rakim、Boogie Down Productions、Public Enemy、Jungle Brothers、Biz Markie、EPMD、Ultramagnetic MCs等によりシーンは大賑わい。
81年のスタート以来ブラックミュージックを敬遠してきたMTVにマイケルジャクソンが風穴を空け、とは言えHip-Hopにまでは届かなかった所に、88年RUN DMCがAerosmithの『Walk This Way』をカバー、MVにヴォーカルのスティーブン・タイラーとギターのジョー・ペリーが出演した事により、MTVでもヘビープレイされ、Hip-Hopがニューヨークのアフリカ系だけでなく、世界中に認知される事になり、同年遂にHip-Hop専門番組『YO! MTV RAP』がスタート。
Hip-Hop自体が強い上昇気候の中、勢いの止まらないN.W.Aに対し Hip-Hop生誕の地、東海岸ニューヨークはブロンクスのラッパーTim Dogが91年に『Fuck Compton』という曲でN.W.Aをディス。
それに対しN.W.Aからのアンサーは無かったものの、代わりにMC Eiht率いるCompton’s Most WantedやRodney-Oが「Who’s Fucking Who」、「Fuck New York」をリリースし応戦。
これらが東西の対立構造の発端と言われる。(その前にもIce-TとLL Cool Jのビーフがあるがこれは地域的な問題と言うよりも個人のスタイルの問題なので無効と解釈する。)
90年代に入り東海岸でもPublic EnemyやNative Tongues (A Tribe Called Quest、De La Soul、Jungle Brothers)、Big Daddy Kane、Naughty By Nature等のアーティスト達が話題を作る中、91年N.W.Aの2ndアルバム『Niggaz4Life』がHip-Hopグループとして初の全米1位を獲得。ギャングスタラップが商業的にも他のジャンルを凌駕し始める事に。
しかしN.W.AはEazy-Eとマネージャーに対する着服疑惑等でメンバー内で確執が生まれ、88年Arabian Prince、89年Ice Cube、91年にはメインプロデューサーのDr.Dreが脱退。
同年Dr.DreはストリートギャングBloods出身のSuge Knightと共に ”Death Row Records” を設立、翌年92年に初のソロ・シングル「Deep Cover(AKA187)」と1stアルバム 『The Chronic』をリリース、このアルバムがマルチプラチナを獲得、史上最も売れたヒップホップアルバムの一つに。
(同年にロス暴動勃発)
続く93年には自身のアルバムにフィーチャーし注目を集めたSnoop Doggy Dogg(現Snoop Dogg)のアルバム『Doggy Style』をプロデュース、Billbord200(アルバムチャート)1位を獲得し、P-FunkのようなうねるベースにOhio Playersの『Funky Worm』の影響と言われる超高音のリードシンセというG-FUNKスタイルが全米を支配。
場所はニューヨークへ移り同93年、Uptown recordsの社員としてFather MC、Mary J BligeやHeavy D & the BoyzなどをプロデュースしたSean Combs(後のPuff Daddy)が自身のレーベル ”Bad Boy Entertainment” を立ち上げすぐさまCraig Mack、The Notorious B.I.G.(Biggie)と契約。
続いて、91年にオークランドにてDigital Undergroundの一員としてデビューし、すぐさまソロアルバムもリリース翌92年にはブラックムービー『Juice』に主演とノリに乗っていた2PACを獲得にかかるが失敗。しかしCraig Mackの『Flava in Ya Ear』がヒット、Biggieも同曲のREMIXやMary J Bligeの『Real Love』のREMIXの客演等を経て、93年デビューシングル『Party And Bullshit』を映画『Who’s The Man?』のサウンドトラックとして発表。94年にはHip-Hop屈指の名作として名高い1stアルバム『Ready To Die』をリリースし評価はうなぎ上り。同時期、Wu-Tang ClanやNas等の台頭、DJ PremierがChopという新しい技法を確立するなど、後にイーストコースト・ルネッサンスと呼ばれる程の勢いを見せるように。
時は一年戻り93年、Biggieが仕事でLAを訪れた際二人は知り合い意気投合、暫くの間親友として良い関係が続きます。そして94年11月30日、Bad Boy Records仕切りのレコーディングのため2PACがタイムズスクエアのスタジオを訪れた所、ロビーで銃撃に会い頭部を含む5発の銃弾を受けます。
が翌日、集団レイプ容疑で裁判中だった2PACは「欠席してしまっては勝手に有罪にされてしまう。」と車椅子で出廷するも、判決は有罪。4年半の実刑となります。(銃撃もこの裁判に絡んでいた大物ギャングの名前をメディアに出した戒めという説も。) Biggie達と話す間も無く服役に行ってしまった2PACはBad Boy Records(Puff DaddyやBiggie)に嵌められたと考える様に。
そしてそのタイミングでリリースされたBiggieのシングルB面の『Who Shot YA』が2PACに対するディスと話題に。(本人達はリリースは事件前に決まっていたと噂を否定。)
それを好機と見たDeathRow RecordsのSugeは95年のThe Source Hip-Hop Awardでのベストサントラ賞の受賞の際、「2PACよ常に周りに注意しろ。俺達はお前の味方だ。そしてアーティストになりたい奴、スターでいたい奴、やたら曲中に登場したり、MVでずっと踊ってたりする出たがりプロデューサーに気をもむ必要はない。デス・ロウにこい。」と2PACへのメッセージに加えPuff Daddyをディス。
しかもDr.DreがDJ Premierを抑えてベストプロデューサーを受賞したため、空気は一層悪化。
その状況に激怒したSnoopの姿がフォーカスされ、メディアの煽り具合が加速する。
そして、DeathRowとの契約を条件にレーベルが保釈金140万ドルを支払い、2PACが釈放に。
釈放されたその足でスタジオへ向かいレコーディングを開始。27曲収録の2枚組アルバムを2週間で仕上げ、1stシングルとなった『California Love』はBillboard hot100 2週連続1位。数々の賞にノミネートされ、後発のアルバム『All Eyez on Me』も堂々の1位を獲得。
しかし出所後の2PACに以前の眩しい様なカリスマ感は無く、人が変わったかの様に刺々しく、とにかくBad Boy Recordsに対する憎悪で溢れ、多くの友人達が「とても見ていられなかった。」とコメント。
そんな2PACがアルバムの後にリリースしたシングルが『Hit 'Em Up』。
Biggie、Puff Daddyを始め、Bad Boy Records周辺のアーティストを名指しで一人一人ディス。
その後DeathRow所属のグループ”The Dogg Pound”によるNewYorkトリビュート曲『New York New York』のMV撮影でNewYorkを訪れた際、Funk Master Flexのラジオ番組に電話ゲストとして出演したBiggieが彼の煽りに激昂してしまい、「NYを愛してる奴は全員撮影現場に集まれ。ぶっ殺せ。」と発言してしまう。そして本当にDogg Poundが銃撃を受け、それにより『New York New York』はディスチューンに変更。それに対しTragedyを中心にMobb deep等Queens勢が『LA, LA』という曲で応戦。緊張感とニュースバリューがさらに増していく事に。
そこにメディアの煽りも手伝い、KIDS達も不必要に西派、東派と分かれ代理戦争の様になってしまう。
そして96年9月7日ラスベガスにて2PACが銃撃され6日後に死亡。
半年後の97年3月9日BiggieがLAで行われたSoul Train Awardの会場から出た所を銃撃に会い死亡。
Hip-Hopシーンは若きカリスマを2人も失う事になる。(両件共に未だ未解決。)
この事件、レーガン政権によるレーガノミクスからのブラックマンデー。その後の不況。
アフリカ系アメリカ人への差別。ロス市警の腐敗とギャングとの癒着。クラックコカインの流行によるドラッグビジネスの巨大化とそれに纏わる犯罪の増加。
様々な時代背景が絡み合っての結果の中、大きな問題点の一つとしてメディアの必要以上の煽りとバブル化したモンスターゴシップがあると思われます。
そして同じく80年代イギリスのサッチャー政権のサッチャイズムの中産まれたドラッグ&RAVEカルチャー”セカンド・サマー・オブ・ラブ”。
政治経済が大きく動く時、音楽やストリートカルチャーは同じ様に大きく動いてきた中、今の日本も、長期政権とそれに対する不満、ドラッグの流行、ユーザーの感情を不必要に煽る事で数字を狙うメディア等、とても80年代のアメリカ、イギリスと近いところがある様に思えます。
そんな中、先ずは”メディアの情報にたやすく煽られない事”。2chが流行した時もそうでしたが、自分が事実をよく知る件のスレッドなどを見ていると、特にこの手のアウトロー的な情報は、真実と全く違った情報が事実として一人歩きし一般的な定説となっている事が多く見られました。
この記事自体もNisi-pの記憶を元に一般的な情報をまとめているものであり、真実に沿っているかどうかは当事者以外にはわかりません。
その中、何より先人達から学ぶべき事は、”憎しみあいや争いは何も産まないという事、相手を悪として罵っていても何も解決しないという事。特に戦いに臨まなくてはならない時ほど、相手の立場に立って考える事が必要であること。”これが大切なのかなと考えさせられたお正月でした。
皆さんはどうお考えになるでしょうか?
Anyway、若きカリスマ2人にリスペクトを。
そして興味を持たれた方はNetflixでは『Hip-Hop Evolution』や『Ansolved 未解決ファイルを開いて』などこの件に纏わる番組があるのでチェックしてみては。
今回はヴァイオレンスなテーマだったので、Mixは底抜けに明るくMiami Bass Mixです。
ぜひ聴いてみてね。
miami bass mix by Nisi-p
ではPART2STYLEからNisi-pでした。
Peace and Love.
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