ヒューマンビートボックスとは、口から出される様々な音を複雑に組み合わせて作られる一つの作品だ。ビートボクサーたちはギターやドラム、ときには機械音までも口で表現する。なかには神業と称され、憧れの対象になっている人もいる。AFRAもその一人だ。
彼がヒューマンビートボックスに出会ったのは1996年のことだった。それまでヒップホップのなかでもとりわけラップを好み、ラッパーとして青春時代を過ごしていた。そして高校2年生の夏、ニューヨークのセントラルパークで彼はとあるビートボクサーに衝撃を受けたのだ。自分以外に口から音を出す人がいるということに稲妻に打たれたような感覚になったのだろう。彼はすぐにそのビートボクサーの真似を始めた。ニューヨークの喧騒で生まれた出会いが、彼の人生を変えたのである。そのビートボクサーの名前はRahzelといって、The Rootsというグループですでに活動していた。
ヒューマンビートボックスを始めたAFRAは、その音を再現したいという強い情熱を持っていた。後に神業と呼ばれるほどの彼のヒューマンビートボックスは、このパッションから生み出されたのだろう。手元に楽器がないことも手伝って、どんどんヒューマンビートボックスの技術を磨き上げた。高校を卒業してニューヨークに一人で渡米してから、さらに情熱はたかぶっていったことだろう。オープンマイクで飛び入り参加したり、映画に出演したりなど、やり続けることでパフォーマンスを上げていった。彼の圧倒的な声量は、この経験によるものだといわれている。常にやる気で溢れ、怖いもの知らずで突き進む。これも神業の一つと言えるだろう。野心家な部分が垣間見えるAFRAのヒューマンビートボックス技術は、ニューヨークで生まれて育てられた。Rahzelに出会い、彼の真似をして、それを自分流に仕上げることで神業を作り上げたのである。
ヒューマンビートボックスを作品にする人は決して多くはない。ビートボクサーとはその場限りのパフォーマンスに命を賭けるものともいわれる。AFRAも作品づくりに葛藤した内の一人である。日本人初のヒューマンビートボックスアルバム「Always Fresh Rhythm Attack」を2003年にリリース、その後もいくつかの作品を残している。CMでタイアップされているのでどこかで聞いたことがあるかもしれない。本当に口だけで表現されているのか疑問が湧くほどのパフォーマンスは、彼自身が楽器なのではないかときっと感じるだろう。
そんな彼の作品に対する意識にリズムの変化が起こったのは、プレフューズ73によるプロデュースの話が持ちかけられたときだった。「正直迷った」と彼は語ったそうだ。ステージでの緊張感や高揚感は他では体験できないし、再現もできない。プレフューズ73ことスコット・アレンは、エレクトロニックミュージックとヒップホップの融合を行うなど、非常にアグレッシブな人物でもある。ヒップホップの枠を超えるということは、彼にとってとても挑戦的なことだった。しかしこのことが、結果的に彼の自由な作品づくりへの後押しをしたのではないだろうか。その後に曽我部恵一と新ユニットを組んで挑んだ洋邦カバーアルバム「listen 2 my heart beat」は、AFRAの神業ヒューマンビートボックスが耳によく残る。ジョン・レノンやゴダイゴなどの名曲をはじめ、書き下ろしオリジナル曲を収録した暖かみのある作品となった。AFRAのビートボクサーとしての作品づくりは、セッションやプロデュースによって考え方がフリーになることで、豊かな音楽センスが育まれた結果によるものだ。
日本ではパイオニア的存在になっているAFRA。ヒューマンビートボックスを始めたきっかけでもあるRahzelとも日本で共演を果たし、前代未聞ともいわれる口だけで作るアルバム「Heart Beat」のリリースも行った。出演したCMでヒューマンビートボックスが広まり、彼を目指してビートボクサーになる若者も増えた。高いテクニックと表現力はまさに神業で、随所にそれが現れている。曽我部恵一とのユニットでも、彼の凄さが垣間見える部分がある。声を邪魔しない、心地よいビート。引き立たせつつ目立つのは簡単なことではないが、彼はそれをやってのけるのだ。
未だに人気が衰えないビートボクサーAFRA。常に新しいことにチャレンジし、ハングリー精神を忘れないところを見習っていきたい。彼の今後の活躍にも、決して目が離せない。
Photo: https://www.facebook.com/afra.beatbox
Written by 編集部