ヒップホップ、洋楽を好んで聴いたことがあるなら名前だけでも知っているだろうノトーリアス。結末はあまりにも悲しすぎた伝説だ。ラッパーでノトーリアスのそのものであったbiggieが死亡することで伝説は途切れた。だが彼の遺したヒップホップの音はいまだに力を持ち多くのラッパーに支持されている。
日本のDJの中でもノトーリアスの曲を使う者は多い。それほどノトーリアスbiggieは大きい存在なのだ。もともと彼らはノトーリアス・B.I.Gという名称で知られている。日本では「ノトーリアスビッグ」などと呼ばれていることが多いが正式には「ビー、アイ、ジー」と読むのが正しい。その名前から推測できる通り巨漢の黒人がbiggieだ。身長は190センチ、体重は136kgだったということからアメリカ人の中でも相当の巨漢と言えるだろう。
多くのラッパーやヒップホップアーティストがそうであるように、biggieの生い立ちは不幸そのものだ。biggieが2歳のときに父親は蒸発、母親だけで育てられた。ニューヨークのブルックリンの土地で育った彼の周りにはいつも犯罪のにおいが立ち込めていたが、母親は教師ということもありbiggieを愛情深く育てている。しかし周辺の金持ちや羽振りの良い若者はギャングばかりであったため、彼もまた同じようにギャングを志すことになる。麻薬の売人など犯罪にも手を染めていたbiggie。体格の良かった彼は人一倍目立ちやすかったためよく警察に捕まったという。
biggieが17歳のとき、運命が静かに回り出す。biggieが初めて興味を持ったのはラップバトルだった。暇さえあればラップを聴き、彼は自分自身でラップを作り口ずさむようになった。母親はラップを嫌い騒音だとbiggieに抗議したが、「近いうちこの騒音で大金持ちになれる」とbiggieは自身たっぷりに言ったという。そして彼は近所のDJグランとともにデモテープを録音した。biggieのテープは音楽関係者によって絶賛されることとなる。ヒップホップカルチャー最大の専門誌「ソースマガジン」の編集者でありながら音楽プロデューサーであるマティ・Cはbiggieのテープを聴き、その才能を褒めたたえた。マティは「ソースマガジン」でbiggieの特集を組み、ついにbiggieの音楽のキャリアが開けたのである。
アメリカの天才プロデューサー、ショーン・コムズはちょうど「アップタウン・レコード」の幹部にまでのし上がったがクビになったばかりであった。ショーンがbiggieのテープを聴いたのはそんなときである。彼は新しく立ち上げる予定のレコード会社にぜひbiggieを加えたいと考えた。そしてbiggieを「バッドボーイ・レコード」に勧誘する。前金を積んで現れたショーンに対し、biggieは自分をそこまで思ってくれるならと「バッドボーイ・レコード」に所属することを決意する。このときにいわゆるノトーリアス・B.I.Gが誕生するのだ。ノトーリアスとは「悪名高い」という意味、そしてB.I.Gは「Bussiness Instead of Games(遊びじゃないぜ)」という意味が込められた。biggieが本気でラップで生きることにしたという決意のあらわれだ。
1994年にbiggieの初アルバムが完成しリリースされた。その名も「Ready to Die」。biggieのハードなヒップホップとライムに世界中が驚いた。彼は一躍人気となりスターの道へと駆け上がる。このとき世間を最も賑わせた曲が「Juicy」だ。biggieのそれまで送ってきた生活、感情、怒り、悲しみがポップにつづられている名曲である。
このアルバム収録の際に、biggieはのちに自分の人生を左右することになる友人と出会っている。それが2パックだ。2パックはロサンゼルスで活躍しているラップグループで、biggieに自分たちのラップグループ「サグ・ライフ」に入らないかと誘っている。あいにく、レコード会社の都合上biggieは加入することができなかったが、それでも2パックとは友達として良い関係を築いていたのだった。
biggieと2パックの仲が険悪になったのは1994年11月30日のことだ。biggieと2パックはその日、同じ建物内でレコーディングを行っていたが、その際に2パックが銃撃を受ける。幸い命はとりとめたものの、建物から逃げるbiggieたちを見て2パックはbiggieたちが事件を仕込んだのだと思い込むようになる。そして真実を確かめることなく「VIVE」誌に「biggieに恩をあだで返された」と答えた。これが引き金となりbiggieと2パックは対立することになってしまう。悪いことに、biggieを育てたショーンに対してライバル心を抱くシュグ・ナイトは「デス・ロウ・レコード」を立ち上げ、2パックは「デス・ロウ・レコード」に所属することとなる。東海岸のbiggie、西海岸の2パックの対立構造を意図的に作り上げたのだ。これがいわゆるヒップホップの「東西戦争」といわれる事件となった。
この「東西戦争」をマスコミは大いにあおった。だがbiggieはこの騒ぎを静観することにした。biggieがこのときリリースした「Who Shot Ya?」は「誰がお前を撃った?」という意味の曲だ。それほど2パックに訴えたかったのだ。しかし思いは通じることはなかった。「Who Shot Ya」だけは名盤となり今でも人気の曲として残っている。だが、世界はbiggieを追い詰めていく。1997年のラスベガスで2パックは再び銃撃を受けた。そして今度は6日後に死亡したのである。
biggieたちに衝撃が走った。次は自分が狙われる。しかしこの時同時にbiggieには長男クリストファーが誕生していた。このまま隠れて生きるわけにはいかない。そう決意したbiggieは次のアルバムの制作に取り掛かる。アルバム名は「ライフ・アフター・デス」。死後の世界。
1997年、biggieはロサンゼルスにてプロモーション活動を行った。敵地と思われていたロサンゼルスだが、Biggieの訪問は暖かく迎えられた。パーティーが開催され、biggieも即興でラップを披露するなど大サービス。プロモーションも順風満帆かと思われた。biggieはパーティー会場を後にした。おそらく次に起こることは誰も予想できなかっただろう。次の瞬間、Biggieは胸に銃弾を4発受けた。そのまま意識不明となった彼は次の日の朝に死亡したのだった。「ライフ・アフター・デス」のアルバム名の通り、彼は死後の世界に旅立ってしまった。皮肉なことにこの事件のことも影響し、「ライフ・アフター・デス」は大ヒットアルバムとなった。
そして現在、Biggieの息子クリストファーはBiggieの一生を描く映画に出演し、Biggieの幼少期を演じている。ラッパーの世界でノトーリアス・B.I.Gは伝説となりパフ・ダディやエミネムなど多くのラッパーがBiggieをリスペクトしている。Biggieはいつでもラップでわれわれに語り掛ける。その言葉にウソはない。いつでも心に刺さるライムで語り掛けているのだ。
今も心の中に生き続ける伝説のラッパーだけに多くの名言、パンチラインを残している。生前のアルバムリリースパーティで彼の残した名言のひとつが「Brooklyn We Did It !!」の一言だ。これは地元であるブルックリンの仲間やファン、全ての人に向けて「ブルックリン全体でつかんだ成功だ!」と伝えたい、彼の地元を愛する気持ちから出てきたのだろう。
そしてリリック中にも多くの名言を残している。そのひとつが「Damn right I like the life I live, because I went from negative to positive」というフレーズで、これは「自分の人生を気に入っているよ、なぜならネガティヴな環境をポジティブに変えてきたらな」と前向きな内容だ。ゲトー生活から抜け出すことのできたBiggieならではのリリックと言えるだろう。
今では彼の送ってきたハードコアな生活がドキュメンタリー作品としても公開されている。最も有名な作品は2009年公開の『ノトーリアス・B.I.G.』だ。この映画では少年時代のBiggieを実の息子が演じていることでも話題に。上記で解説したように、彼がストリートの人間からレコード会社と契約を結び、2パックと出会い、成功を収めていく様子がわかりやすく描かれている。
そして2021年にはドキュメンタリーとしては最新作となる『ノトーリアス・B.I.G. -伝えたいこと-』が配信されている。この作品では母親であるヴォレッタ・ウォレスと彼の友人でコラボレーターのディディがエグゼクティブ・プロデューサーをつとめており、2人ともがインタビューでも登場している。
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https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/97098/2
Photo:https://www.facebook.com/pg/NotoriousBIG/photos/
Written by 編集部