Richie Hawtinはイギリス出身のテクノミュージシャンであり、DJとして活動を行っている人物である。多くのテクノミュージックに携わり、業界に大きな影響を与えている。また、日本にも興味があり、特に日本酒に関して造詣が深い。ここではRichie Hawtinについて詳しく説明していくこととする。
ここではRichie Hawtinがどのような人生を歩んできたのかを見ていこう。
Richie Hawtinは1968年6月4日にイギリスのオックスフォードシャーに長男として生まれ、父親の仕事の都合で9歳の時にカナダ、オンタリオ州のウィンザーへ移住することとなる。10代後半にはウィンザーと隣接しているアメリカ合衆国のデトロイトへ出かけて、シンセサイザーやシーケンサーを使って作られたエレクトロニック・ダンス・ミュージックである「テクノ」に接したり、ラジオ番組でミックスという手法を知ったことにより、エレクトロニック・ダンス・ミュージックやDJに対して興味を持つようになる。
その後、ウィンザーにある小さなバーで行われたパーティーから、DJとしてのキャリアをスタートさせている。またそのパーティーにおいては、Richie HawtinがDJに興味を持つきっかけとなったアメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身のテクノミュージシャンであるジェフ・ミルズとの競演をすることができた。また、同じ頃にはデトロイト・テクノの創始者の1人とされ、アメリカのテクノミュージシャンとして活躍していたデリック・メイとも大学の学内誌におけるインタビューで出会っている。なお、この時のRichie Hawtinに対するデリック・メイの印象はというと、心の内に秘めるテクノに対する情熱は類い稀で、非常に印象的であったとされている。このような出会いもあり、その後はデトロイトのクラブである「ザ・シェルター」へ通うようになる。
写真: BÓNUSZ Electronic Music Festival
また、そこでレジデントをしていたスコット・ゴードンと出会い、スコット・ゴードンが自身が担当していたラジオ番組からザ・シェルターに着くまでの前座としてレジデントDJを任せてもらう機会に恵まれた。この頃にRichie Hawtinはアフター・パーティー、ザ・ミュージック・インスティチューションに通うことでDJのみならず、音楽を作るということを意識し始めるのである。そして、レコーディングや音楽販売などの知識を持っていたジョン・アクアヴィヴァと出会い、2人で本格的なレコーディング活動を行うようになるのである。しかし、デトロイトにある様々なミュージック・レーベルへ製作した音源を送るものの反応がなかったため、自分たちで「Plus-8」というレーベルを立ち上げることとなった。後にダニエル・ベルを加えたユニットも生まれ、ヨーロッパを中心に支持されるようになっていく。Richie Hawtinのソロでの活動も高い評価を得て成功したり、自社レーベル以外からの楽曲リリースもあったが、1995年にはオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の影響を受け、入国禁止を命じられたり、ジョン・アクアヴィヴァとの折り合いも悪くなってしまうことがあった。
そしてRichie Hawtinは新しいレーベルである「M_nus」を立ち上げ、拠点をニューヨークに移した。ニューヨークでの活動はあまりうまくいかなかったが、最終的にはベルリンでライブ・パフォーマンスを行うほか、そのような音楽活動だけでなく、DJミキサーの開発に携わるなどの才能も発揮している。
DJ Richie Hawtinは日本とも関係が深い人物である。Richie Hawtinは日本食を愛しており、特に日本酒に造詣が深く、ベルリンで日本酒のバーを開くために酒蔵の訪問もたびたび行っている。日本でも東北で被災した酒造元を支援するために「KANPA + i」というプロジェクトを行い、東北の酒を提供したり、2014年には日本酒の啓蒙活動に貢献したと認められ「酒サムライ」叙任者の1人にもなった。
Photo:https://www.facebook.com/pg/richiehawtin/photos
Written by 編集部