DJ クールハークはヒップホップ黎明期の3大DJの一人に数えられており、ヒップホップ界のゴッドファーザーとも称される。1967年にジャマイカからニューヨークに移住し、ブロンクス地区に住んでいた。DJをはじめたキッカケは、1973年に開かれた妹の誕生日パーティーであった。
DJ クールハークはターンテーブルを2つ同時に使う、ブレイクビーツを発明したと言われている。このブレイクビーツにハードファンクやロック、そしてラテンの打楽器を採り入れることで、ヒップホップの基盤が出来上がったわけである。こうした音楽の構想がダンサーの間でも広まり、現在のラップミュージックとして定着することになる。DJ クールハークが奏でるジェームズブラウン等のファンクは、1970年代の初期ブロンクス・ディスコブームに多大なる影響を及ばした。特にダンサーに与えた影響は大きく、ドラムビートが一層強調されるようになったわけである。さらにクールハークはブレイクと称されるビート音を、曲中で様々に変化させる技術も生み出している。彼のDJスタイルは、直ぐにアフリカ・バンバータらに採り入れられた。但し、クールハーク自身はヒップホップを、CDなどの商用音楽にすることは暫くなかった。
DJ クールハークの本名はクライブ・キャンベルといい、6人兄弟の長男として誕生している。子供の頃から近所のダンスホールに出入りしており、DJの音楽を聴きながら育っている。彼がニューヨークのブロンクスに移住した当時は、ブロンクス横断鉄道の建設工事が行われていた。そのため何千人もの移住者が当地に暮らしており、街は活気に溢れていた。その内に従来から暮らす白人と移住者との間に軋轢が生まれ、移住者同士の縄張り争いも加わり街は荒れていった。高校時代のキャンベルは、その長身を活かしてバスケットボールで活躍した。当時「ヘラクレス」のあだ名がついており、同時に加わったグラフィティグループで「クール・ハーク」と呼ばれるようになった。その頃に彼はジェームス・ブラウンの「セックス・マシーン」を手に入れ、友人たちと穴が開くほど聴き込んでいたのである。
「Bボーイ」と「Bガール」という呼び名は、もともとブレイクビーツに乗って踊ったダンサー達を指していた。DJ クールハークは「ブレイク」を「興奮する」とスラング化したことになる。ブレイキングというヒップホップ文化の根幹が、黎明期から既に息づいていたわけである。その頃から、お客が円を作る中でBボーイやBガールが真ん中で踊っていた。はじめの頃は簡単なステップだけであったが、ある時から手足を全て使った回転ダンスが流行るようになった。それに触発されて多くの若者たちが新たな技を考え出し、ブレイクダンスの先駆けとなっていったのである。DJ クールハークが考案したサウンドシステムは「ハークラウズ」と呼ばれるようになり、ブロンクス地区の路上や公園に持ち出されていった。これが路上ヒップホップの始まりとなった。
DJ クールハークは1974年まで、ブロンクスの人気ナンバーワンDJに登りつめていた。彼の生み出したブレイクビーツはサンプリングなどのテクニック誕生に寄与し、そこから数々のヒップホップの名曲が生まれたことになる。それと同時にヒップホップに欠かせない、B-boyingとGraffitiという2つの部分も発展していった。もう一つの要素であるMCingに関しては後に発展するが、それもDJ クールハークのDJスタイルに基づいたテクニックである。彼はヒップホップのパイオニアであるが、自分の音楽を通じて大金を稼ごうとは思っていない。それでも彼は現役DJとして活躍しており、レジェンドとしてリスペクトされている。
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引用:https://www.youtube.com/watch?v=Hw4H2FZjfpo
Written by 編集部